悪しきことは、善きことを悪く刺激する、あるいは、善きことに善く刺激されない。
善きことは、悪しきことを善く刺激する、あるいは、悪しきことに悪く刺激されない。

東洋(思想)と西洋(思想)をただ繋ぎたいのではなく、真理探求の創造的活動によって、いいかえれば、世界の〈真理の断片〉を発見し、その断片の概念を、つまり関係的概念または連鎖展開的概念を創造する活動によって、創造的な「折衷主義」として東西思想の結合が生じることを……云々。

閉塞感は情念である

閉塞感は社会(他者)によってもたらされるものか?
それともそれは、自身によってもたらされるものか?
そうした議論はあるが、答えは当然ながら両方である
閉塞感から脱するには、二種の門口の認識から始まる

或る者が「新しい道」を発見し、それを皆に教えた。
その道の存在を知った別の或る者が難色を示した。彼にとって、その道は険しいものであった。そのため、彼はすぐに不平を漏らした。
「険しい道」だと感じるのは、彼の問題であって、新しい道の発見者の問題ではない。たとえその発見者が、「この新しい道は険しい道である」と言ったとしても。

いまや絶滅が危惧されている文芸・芸術の一分野があるとする。
そしてその一分野を復興しようと努める者がいるとする。
もしその者が利己的な動機だけで動くなら、いいかえれば、臆面もなく快楽、地位、富、名誉を得るために動くなら、あるいはその者が他の文芸・芸術分野の同業者を悪意によって妨害するなら、その復興活動は失敗に終わるだろう。それどころか、彼自身の手によって、その凋落は加速するだろう。
余裕なき態度、剥き出しの欲望は明らかに醜い。そうした不快・不健全なものは他者だけでなく、普遍性をも遠ざける。彼の内なる「醜さ」は、自身が執着する対象とその関係性を破壊する。

ある二種の自己体験を比較することで、容易に格差が導き出される一例として。すなわち、娯楽から生じる快楽性は、娯楽からでは生じない快楽性に比べて持続的にも、深度(奥深)的にも不利であるということ。

人間は本来的に土地に縛られる存在である
人間は本来的に土地に縛られる存在ではない

人間は本来的にそれらの考えに縛られる存在である
人間は本来的にそれらの考えに縛られる存在ではない

私は最後の考えに希望を見出す

一見僅かな差異にしか見えないが、実は著しい差異のある一例として。すなわち、研究者と創作家とによる「理性は完全無欠なものではない」という考え。

貪欲な人は「貪欲によって得られるもの」しか見えない。
「貪欲によって得られないもの」は、彼に対して沈黙し続ける。

〈娯楽豚〉や〈快楽豚〉が歓迎するような作品を作ろうとするなら、もはや創作家として終わりだ。
俗物を(真の意味での)創作家とみなさない「知恵」(sophia)の系譜に従えば。

自身の「低次のもの」が自身の正しい能動的な導きによって「高次のもの」に変状したとき、つまりその部分が世界価値の一つとして参与したとき、〈娯楽豚〉や〈快楽豚〉では経験でき得ない普遍的な喜びが生じる。

「不幸な創作家」、たとえば快楽、富、地位、名誉などのために何かを作る者から健全に離れる行為は、善意からなるものであり、また同じ創作家としての礼儀作法でもある。

人脈によって得られる良きものが存在する。それは繊細な生ものだ。だから丁寧にそれを育んでいかなければならない。
同様に、人脈では得られない良きものも存在する。それは人間関係を超越した普遍的なものだ。それを獲得している者は、当然大切にそれを愛でていくことだろう。

世界の全てには意味があると仮定する。
ところで、或る者が或る対象または現象に対して、「それは意味がない」と本気で考えたとする。
この「有意味」の世界では、その者の考えも意味があることになる。では、「無意味」とはいかなるものなのか?
今のところ、「有意味の否定」と仮定しておこう。だがその否定も、世界にとっては有意味であることになる……

人生は旅
すべては旅の途上にある
だが、探求の旅が完遂することはない
それでも探求は続けるだろう
私たちの目的が探求それ自体にあるからだ