「真理観照」・「至福直観」に従う実践。
それは私が知る限り、最高の実践である。
一真理の真理全体の含意
私は「自然」を二つに分ける。
〈創造されず、創造する自然〉と
〈創造され、創造する自然〉に
悪しきことは、善きことを悪く刺激する、あるいは、善きことに善く刺激されない。
善きことは、悪しきことを善く刺激する、あるいは、悪しきことに悪く刺激されない。
悪しきことは、善き存在を認めず、執着する
善きことは、悪しき存在を認め、離れ去る
超越論的創作/先験的創作
一編の詩の中の秩序
一編の詩の中の秩序の外の混沌
「永久」とは無時間性のこと
時間の作用を超越したもののこと
年齢を重ねても、型にはまらず
「自由詩」の際限なき解放感
「形式主義」とは昔から縁がない
それとも遥か昔に距離を置いたか
東洋(思想)と西洋(思想)をただ繋ぎたいのではなく、真理探求の創造的活動によって、いいかえれば、世界の〈真理の断片〉を発見し、その断片の概念を、つまり関係的概念または連鎖展開的概念を創造する活動によって、創造的な「折衷主義」として東西思想の結合が生じることを……云々。
「人間である」ことの完成に向かう行為
その試み自体が上品かつ高度な芸術である
閉塞感は情念である
閉塞感は社会(他者)によってもたらされるものか?
それともそれは、自身によってもたらされるものか?
そうした議論はあるが、答えは当然ながら両方である
閉塞感から脱するには、二種の門口の認識から始まる
我集中する、ゆえに我あり
精神の品性
上品な人と下品な人
著しい二極化格差社会
自分に言い聞かせていることの一つ
すなわち、「お前のような屑が安らかな死を迎えることはない」
或る者が「新しい道」を発見し、それを皆に教えた。
その道の存在を知った別の或る者が難色を示した。彼にとって、その道は険しいものであった。そのため、彼はすぐに不平を漏らした。
「険しい道」だと感じるのは、彼の問題であって、新しい道の発見者の問題ではない。たとえその発見者が、「この新しい道は険しい道である」と言ったとしても。
不健全な人間は、他者の「醜さ」に過敏である。
いまや絶滅が危惧されている文芸・芸術の一分野があるとする。
そしてその一分野を復興しようと努める者がいるとする。
もしその者が利己的な動機だけで動くなら、いいかえれば、臆面もなく快楽、地位、富、名誉を得るために動くなら、あるいはその者が他の文芸・芸術分野の同業者を悪意によって妨害するなら、その復興活動は失敗に終わるだろう。それどころか、彼自身の手によって、その凋落は加速するだろう。
余裕なき態度、剥き出しの欲望は明らかに醜い。そうした不快・不健全なものは他者だけでなく、普遍性をも遠ざける。彼の内なる「醜さ」は、自身が執着する対象とその関係性を破壊する。
ある二種の自己体験を比較することで、容易に格差が導き出される一例として。すなわち、娯楽から生じる快楽性は、娯楽からでは生じない快楽性に比べて持続的にも、深度(奥深)的にも不利であるということ。
人間は本来的に土地に縛られる存在である
人間は本来的に土地に縛られる存在ではない
人間は本来的にそれらの考えに縛られる存在である
人間は本来的にそれらの考えに縛られる存在ではない
私は最後の考えに希望を見出す
一見僅かな差異にしか見えないが、実は著しい差異のある一例として。すなわち、研究者と創作家とによる「理性は完全無欠なものではない」という考え。
貪欲な人は「貪欲によって得られるもの」しか見えない。
「貪欲によって得られないもの」は、彼に対して沈黙し続ける。
友人とは私が幸福を願う対象のこと
親友とは幸福を共有する対象のこと
〈娯楽豚〉や〈快楽豚〉が歓迎するような作品を作ろうとするなら、もはや創作家として終わりだ。
俗物を(真の意味での)創作家とみなさない「知恵」(sophia)の系譜に従えば。
〈娯楽豚〉や〈快楽豚〉が悪意によって執着してくるのは、彼らの軽薄な快感に相違した何か、つまり彼らが好む刹那性とは異なった何かを展開しているからである。
自身の「低次のもの」が自身の正しい能動的な導きによって「高次のもの」に変状したとき、つまりその部分が世界価値の一つとして参与したとき、〈娯楽豚〉や〈快楽豚〉では経験でき得ない普遍的な喜びが生じる。
「自身と仲良くする」ということは、自身の高次の部分を認めるだけでなく、自身の低次の部分をも認めることにある。
「不幸な創作家」、たとえば快楽、富、地位、名誉などのために何かを作る者から健全に離れる行為は、善意からなるものであり、また同じ創作家としての礼儀作法でもある。
「風習」
それに囚われている人、利用している人、距離を置いている人
人脈によって得られる良きものが存在する。それは繊細な生ものだ。だから丁寧にそれを育んでいかなければならない。
同様に、人脈では得られない良きものも存在する。それは人間関係を超越した普遍的なものだ。それを獲得している者は、当然大切にそれを愛でていくことだろう。
「観念の奥底に存する灯に触れよ」(拙著『最も近き希望』11頁)
「私の思惟」
そこは他者が入りこむことができない唯一の領域。私だけの領域。
「能動感情」による詩
世界の全てには意味があると仮定する。
ところで、或る者が或る対象または現象に対して、「それは意味がない」と本気で考えたとする。
この「有意味」の世界では、その者の考えも意味があることになる。では、「無意味」とはいかなるものなのか?
今のところ、「有意味の否定」と仮定しておこう。だがその否定も、世界にとっては有意味であることになる……
「世界には無駄なものは何一つ存在しない」
(拙著『隠者の小道』186頁)
人生は旅
すべては旅の途上にある
だが、探求の旅が完遂することはない
それでも探求は続けるだろう
私たちの目的が探求それ自体にあるからだ
「成すべきことを成した」以後
その「はじまり」は、すでに過去のもの