欺瞞による悦の報酬の一つに躍起になる奸黠者。つまり、他人に親切にすることで悦に入れることを報酬とみなし、それを渇求する馬鹿者。

ある者が「身近な人たち、自分を好意的に見てくれる人たちのためになることが幸いである」と言っていた。薄氷を踏む思いを表す言葉だが、実はこれを動機としたものは名誉への過度な欲求である。野心がそのように駆り立てるのである。自身の意思によって、自身の行動によって、自身の作品によって、自身の枠組みの中で人々が悦ぶことに満足する。その者は自己の世界内に外れることなく忠実に悦ぶ者たちから称賛と同意を渇求している。歪んだ他者への幸福願望を正当化して。ところがその者の意思に反して、もし他者の幸福を真に願うのであれば、何ら見返りを求めることはないだろう。

世間一般で理解されている良識すなわち「物事を正しく判断し、正誤を区別する能力」としての良識では私は満足できない。私にとっての良識とは、〈第一真理〉の類似性に基づくところの「理性」あるいは「普遍概念、常識概念、共同概念」の本性的展開によって表現された共有的判断力のことである。それゆえ、良識は〈永遠性そのもの〉に共有的に向かっていなければならない。もしくは、良識の活動は本性的に永遠性を分有していなければならないのだ。

ほとんど毎朝、彼は鏡に映った自分の顔に幻滅しているそうだ。
それについてあえて言うなら、自分の顔が醜いと思うのは心が醜いからだ。

快楽、富・権力、名誉のいずれかに妄執する作家が語る「自作を客観視すること」にどれだけの客観的真実が宿っているだろうか?


「信念をもてば争いが起きる」という考えは思想界にもある。
だが、私の考えはこれとは真逆なのである。
すなわち「信念なきところに争いは起きる」ということ。
くわえて「信念をもてば争いから離れられる」ということ。



私たちはおよそ作品というものから、その作者における他者への「礼儀」あるいは「慇懃」を感じ取ることができる。
それは裏返せば、私たちが作品を通じてその作者における他者への「無礼」あるいは「非礼」を云々

匿名によって性格は露出される。

匿名を利用して無責任に無礼を働く者がいるとすれば、それがその者の生来の性格なのである。だから、その者が責任ある場所で礼節をわきまえていたとしても、それは本心を隠した見せかけということになる。
世間が語るように、性格の芯は変わらないものであるなら、私たちはそのような無責任な者または無礼な者と真剣に向き合う必要はない。なぜなら、私たちは人性の責任を自覚することで現れる諸々の価値を重視しているからである。私たちは可能なかぎり、責任ある者として、私たちの限られた時間を、そうした貴きものを愛でることに使うことだろう。

自由意志があると仮定して:
厳密な意味で、自己存在を維持しているのは個の自由意志によるものではない。全存在は維持されているものだと私は考える。

「子供心」には大きく二つの意味があるだろう。
すなわち、真の意味での子供心である「無垢な心」と未成熟な心である「幼稚な心」とに。
後者の「幼稚な心」を捨てられなかった大人、つまり成熟できなかった「幼稚な人」には十分に気をつけなければならない。

私が言う「孤独」とは、孤立や孤立感のことではない。それとは「宇宙的孤独」のことである。すなわち、無限宇宙または劫波(アイオーン)における「私」なる現在軸の知的な自己意識のこと。

憎い創作家の作品に嫌々ふれて粗探しに時間を費やす者は、自身の精神の〈芯〉を傷つけているだけである。言い換えれば、その作品はなんら損害を被ることはないのである。なぜなら、「作品」と呼ばれるに値するものは、強固な愛の結晶であるからだ。
ところで、憎悪は心の弱さからもたらされる。それゆえ、そうした病弱・薄弱な負の情念によって、作品の〈芯〉が砕かれることは決してありえない。

私たちは今日も無垢な夢を捨てた同業者の屍を越えて進まなければならない。
ある日、何ものにも属さず随意に創作しようと決心したものの、寂しさと厳しさの創作的な生に辟易し、心折れたまま空虚に過ごしている日々、欲深の老害と出会い、その者の浅はかな甘い条件に乗り、いまや身も心もその屑人の奴隷となった創作家を、私はみた。
彼は生きる屍となった。無垢な夢を追うことはもはやかなわない。死が訪れるまで、無垢な夢を抱き続ける者はわずかだけ。

人間の悪い部分だけをみる人・みようとする人。
人間の善い部分をみながらも、より多くの悪い部分をみる人・みようとする人。
人間の悪い部分をみながらも、より多くの善い部分をみる人・みようとする人。
人間の善い部分だけをみる人・みようとする人。
人間の悪い部分もまた世界の一部であることを理解し、肯定または受容することで、その悪い部分を善いものとしてみる人・みようとする人。

私があなたから距離を置くのは、あなたのやっていることがくだらないからだ。
あなたがやっているのは「探求」じゃない、「探求ごっこ」だ。あなたはその活動の雰囲気に酔いしれたいだけなのだ。
なぜ、その程度のことに気づけないのだろうか? 「知恵」の探求者として、「若さ」ではすまされない致命的な欠陥がそこにある。

「生は無意味である」からの道探しと
「生は有意味である」からの道探し
「再生」に続く道はどちらであろうか?
むろん——

或る人が誰かに「虚無の何が悪い」と言っていた。生きる意義や希望を見出せず、虚無的に生きることの何が悪いのか、と。
よろしい、虚無が悪いものでないと思うなら、虚無的な人生を死ぬまで送ればいいではないか。もし虚無が悪いものでなければ、その状態の居心地は良いはずだ。あるいは少なくとも、居心地は悪くないはずだ。だから虚無に対して何一つ疑念を抱くことなく、その生に甘んじていられるだろう。

「知的劣化への荷担」
お前たちが俗物や下衆に媚びへつらって、安直で浅薄な作品だけを作り続けた結果、今どうなった?

この国は速やかに、確実に衰退している。誰もがそのことを実感しているに違いない。
また、この国の知者の多くの意見は一致している。いまや「学ぶ」以外に個人の道は開けない、と。すなわち、もはや娯楽にうつつを抜かすことも許さない深刻な事態である、と……。

誰であれ、自身と対立するべからず。
自己対立から生じる自己否定や自己嫌悪によって、自由またはそれに属するものは遠ざかる。

思考の方法は一つだけではない。人間の思考は、言語だけで行うものではないのだ。ところが、言語だけで思考しようとする者が多くいる。彼らは言語で把握できるものだけを信用し、真実とみなす。
そうした〈言語偏狭者〉あるいは〈言語思考偏狭者〉は、難渋な言葉、深い言葉、多義的な言葉などを紡ぐ者に対して、必ず「平明な言葉で書け」、「平明な言葉で説明せよ」と要求してくる。それを断ると、彼らは「平明にしないのは、内容を理解していないからだ」といったお決まりの台詞を吐く。
それも当然だ。彼らは言語のみで思考するのだから。様々な思考法を用いることを得意としない歪な精神をもつ彼らにとって、安直な言葉、浅薄な言葉、一義的な言葉だけを意義あるものとみなす。難渋な言葉、深い言葉、多義的な言葉などは、彼らによって彼らに屈辱と鬱積をもたらすだけの無意義なものとして見誤られる。

〈良い刺激を欲するがゆえの落胆〉
ある創作家が「時代に適合するように」と語っていた。その発想は私にはないため、相違的意見として少し興味を持った。
だが直ぐに、その方がただの〈大衆に阿る人〉であることがわかった。「善よりも快を狙う」魂胆が見え見えの俗物であった。

「人生の大部分は無駄だ。だから気にせず前向きに少しでも良いものが作れるよう生きていけ」
こうした趣旨の考えは、「虚無主義」という深刻な現代病によるものである

私は私の読者には心から感謝している。
だから私は私の読者には真摯に向き合う。
だから私は自身が書きたいものだけを書く。

恐れて生きる者は、様々な障害に躓き続ける。
ところで、「恐れ」は最大の障害の一つである。
ゆえに、その者は既に大きな障害に躓いている。

ある人が言った。
侮辱されて、恐れてしまい、立ち止まっている、と。
それは本当だろうか。
実は、恐れているから、侮辱されて立ち止まっているのではないか?