誰しも自分だけの道がある。あなたは自分の道のことが気になる。だからあなたは、あなたの道程を眺望するであろう。ところがいくら遠くを見ようとも、あなたの道はあなたの道として続いている、という事実が残るだけである。

人間は本有的に思考し続ける。すなわち思考し続けることで深く進展し、その精神は純正性に回帰することが基性なのである。

思考はある種の動力因である、と私は考える。ところが「汝、思考を止めよ」、と或る瞑想者が言い放っていることを知った。ようするに「私は誰でもない」という自覚の境地によって覚者となれる、ということらしい。しかしどうだろう。それは「思考を止めようと試みる」思考に過ぎないのではないか。現に、その瞑想者は「思考を止める」ことを完遂できていない。もしくは、単に消極的または強制的に思考を止めようと躍起になっているに過ぎない――とはいえ、本人としては、それは煩悩から解放された行為である、と迷妄しているが――。それどころか、この世界の――見えるもの、見えないものの区別関係なく――あらゆる対象に対して、散漫に、半端に思考することの堂々巡りに陥っている状況だと見受けられる。いずれにせよ、人間というものは(たとえ思考を止めることができると仮定しても)、思考を止めては世界ならびに世界における自身の実在性を直視することができないだろう。確かなのは、この虚弱な放棄の見解からでは世界の本質的な展開を見失うことになる。

厳密に、
言語化できる深奥性は意識化の深奥性そのものではない。
同様に、
言語化できない深奥性は無意識化の深奥性そのものではない。

[創造性の刺激に乏しき行為を好む人たちの一例]
「批判好きな人」と「説明好きな人」。
それらが共通する剥き出しの尊重欲。
即ち、幼稚性の一面における顕然化。

「言語によって表現される」概念の先にある「言語によって表現され難いが、言語によってしかその有性が現出されない」概念を推定することの意義

考えを押し付けるつもりはないが、たとえ学士課程だろうが、修士課程だろうが、自主的に自身が学びたいことを学ぶだけでは十分と言えないのではないか、と私は思う。自主的に何かから何かを学べたこと、つまり何かから何かしらの答えを得たことを自身という特有性を介して共通性に則しながら再構築していくことが必要である。その独自の共通的進展は、新たな〈学〉の創造となることもあるだろう。そうなれば、〈学〉を愛する者にとって、これ以上ない喜びであろう。

あなたにとって重要なのは、あなたの文章の特徴(例えば、難解または平易など)ではなく、あなたが言語を用いて何かを表現しようとする限りにおいて、あなたのその(言語)能力によっていかに深いものを深く妥当に掘り下げられるか、ということではないだろうか。

「平易性」によって「難解性」の表面を削り落とせるぐらいが限界であろう。いずれにせよ、その掻傷から隠顕されたものは「難解性」の付帯性であることは間違いない。

平明にして達意なる文章は、相手に理解され易い、という意味では自明のことだが良いものである。たとえば、義務教育の教員などが児童生徒の指導に当たる際、この価値観を重視することがその証拠である。しかし世界におけるある種の「難解性」を、(彼ら教員たちが難色を示すような)難解な文章によって表現しなければならないことが事実ある。それは難解な文章が格好いいから、などといった笑って見逃せるような些細な動機からではなく、究理のような至って切実な状態からである。ところが、世界に散在された何かしらの「難解性」に直面した際、義務教育で習ったままに、その「難解性」を平易な文章によって表現することがあるなら、その行為はその「難解性」の表層を表現したに過ぎない。実際、上辺だけの要約ならいざ知らず、「難解性」の全容(全貌)を「平易性」に則った文章によって解明されることなどあり得ないのだから。ましてや「難解性」の精華に到達することなど夢のまた夢である。

或る作家が「読者の多くは馬鹿である」と考えていた。だからその者にとって、多くの読者を獲得するには、分かり易い文章、簡単な内容のものを作る必要があったのだ。しかしながら、この行為はその作家にとって不本意な結果をもたらすことになる。すなわち、自身の手によって読書の層を限定するものである。端的に、知を基準にした下層のためだけの作品として。そのため、そうした心緒からなる作品に触れた後、精神を知的に刺激される読者は殆どいないことになる。そう、その作品から精神を成長させる機会が得られることは殆どないのである。

貴き〈問い〉を深く掘り下げられないのは、とりわけそれが創作家ならば、無才であることを証明する。これからして、当然ながら(貴き課題としての純粋価値を考究し、解決し、そして自己本性に基づき創造することに無力なため、)そうした一証明に該当する創作家にとっては、自身の性向がもたらす失望や絶念などの蓋然的結末を内含していることになる。

あえて古風に言うなら、感覚は魂に従事するものであろう。このことについて同意はするも、だがそれは往々にして主人を見事に裏切り騙すことができる。

えてして、近づかれたくない相手から突として距離を縮められ、近づかれるものである。こちらが嫌な気になることもお構いなしに。「不愉快」な相手からの寄り付き。ここに人生の不思議な「愉快」の一つがあるように感じられる。

人に見捨てられることに強く不安を抱いている者を見よ。その者は冷ややかに背を向けられないために自身の人生をかけて、あらゆる手段を尽くすに違いない。果たして、私たちはそのような者と対等に人格的関係を築けるだろうか?

もし醜悪な顔の人と接する機会があるなら、たとえそれが少しの時間だけであっても、次のことが分かるだろう。すなわち、殆どは長らく不平不満に支配された貧しい精神を持つ者ということが。

浅薄な人間の実測の信頼性:
或る人はもはやいい年であった。そんな彼が、「自分の小ささと世界の大きさ」を知った、と謙虚ぶって公言し、さもしい達成感に浸っているそのとき、何か低級な怪奇映画を観させられたような苦々しい気持ちと痛々しい気持ちの混在したものが私の内に生じる。実にくだらない。おまえの心と器は、おまえ自身が想像している以上に小さく、そしてこの世界は、おまえが想像している以上に大きく、深いものである。現に、世界はおまえの実在を許容しているのだから。

「自己主張」や「自分語り」を異常に好む人間の人生は総じて薄っぺらい。人格の障害によって自身の世界が狭いことに気づけないのかもしれない。だが、偏った人格者にそのことを助言する者は殆どいないだろう。大抵の健常者や常識人なら、そのような利己的な者から恨まれることは避けるだろうから。そう、健全・良好な関係が築けない面倒な相手である以上、穏便に済ますことにこしたことはない。

「身内だけを幸せにする」と君は言う。
結構な意気込みだ。しかしその浅慮は、世界中の至るところで暗躍している暴力団の共通した行動原理であることも理解しておかなければならない。

「私は至らない人間ではありますが……」
考え無しで発している愚か者は問題外として、この言葉を使用するものが謙虚か、傲慢かはその者の行動が示してくれる。一例として、自分が未熟だから他人を批判し、他人を傷つけてしまった。これを繰り返しているなら、その者は傲慢である。それも根っからの傲慢である。直ちに距離をとる必要がある。

まず、悪見本に出会えたことに心から感謝を。
心底から下劣な人がいる。彼は娯楽に熱狂していた。その行為が下劣なのではない。それについては「勝手にやってろ」と思うだけである。彼が下劣なのは、娯楽の熱狂を正当化するために純粋なものを利用し、汚そうとすることである。もちろん、下劣な人ごときに純粋なものはびくともしないし、汚されることもないのだが。依然として、純粋なものは彼に沈黙し続けるだろう。

【偽を故意に生みだす創作家】
嘘は偽である。偽は真の純粋活動を阻害する。創作活動に限定すれば、偽なるものは自己の純粋な創造性を妨害する。
ごく僅かな創作家はそのことを知り、真に従うが、多くはいずれかである。すなわち、その事実に気付かずに嘘を吐き続ける創作家。あるいは、それに気付きながらも嘘を吐き続ける創作家。

「嗜好のために長生きしたい」。
このように語る人が不憫でならない。
彼が人生の妙趣を知解することはないだろうから。
たとえ百年生き長らえたとしても。

悪意の塊のような人がいる。
彼は神に祈った。
善意と幸福に包まれますように、と。
他人に親切にすることで悦びと誉れが得られますように、と。
私にとって彼はただの観察対象である。
私は彼のある反応を確認したくなり、彼にこう言った。
「叶うといいですね。それには、あなたの悪意を少しでも除去してみたらどうでしょう? 自身の力で善意が育まれますよ」、と。
予想通り、彼は私に悪意を向けてきた。
彼の終わりなき悪循環に、終わりがありますように。

私は人種差別主義者を人間と見なさない。
「人間もどき」だと思っている。
私は人種差別主義者を差別しない。
「人間」の枠組から外し、区別するのみ。

慌てる必要はない。
このことは大衆の生から学ぶことができる。人々は性急に何かを得ようとする。果たして、焦って得たものに不滅性が宿っているだろうか? いかなるものも、急いでいては幽玄にふれることすらできない。多くの人々が見過ごしたところに真の価値があるのだ。それは必然に則って、悠々と丹念に尋究することでしか得られない。

人間は自己の内に本性的価値を有している。もしそれが共通概念すなわち理性であるとするならば、「平易なものを作ることで短慮を肥大化させる」ことは人間本性に対する弊害行為に等しい、ということになる。

言語化における浅薄性は、或る錯覚を生み出すことがある。つまり言語化している或る者に対して、その言語化における浅薄性の優先作用があたかも深遠性を汲み取っているかのように錯覚させることがあるのだ。この錯誤または誤想を真に受けるものこそが浅薄者なのである。

〔言語化し難いことを平易な言葉にして説明する〕。これは決して難しい作業ではないのだが、しかしそれを得意げにする者がいる。信じ難いことだが事実である。とりわけ、それが学者や創作家である場合には目も当てられない。とはいえ、私はこの事実に対してくだらないと感じながらも少しだけ関心がある。まあ正直に言って、呆気にとられて、冷ややかな心情をもたらす珍事に少なからず興味がわくのは当然ではないだろうか。ともかく、それが得意であると主張する者は、自身の精神の支柱が〈退屈なもの〉であることを自身によって開示していることになる。さて、どれだけの者がこの無様な事実に気づいて自慢しているのだろうか。

正直なところ、「私たちは」なんて言いたくないのである。
概念を敷延する為の根底にあるものは「私は」なのだから。

なぜ仕事以外では好んで語りたがらないのだろう。おそらく根底の部分で満たされているからであろう。何によって? 確信ある自信によって。それは負の情念から薙ぎ倒されることなき能動的な性質のもの。

 愛情、それが真のものであるか、偽のものであるかは別にして、それを動機に他者のために何かを行う際、そのことを公言する者と、しない者とがいるだろう。他者に公言する者は、利己的で、また酷く低級な人間である。そうであるかぎり、つまり酷く低級な人間であるかぎり、そのような者は早々お目にかかれないため、素材・題材としては有難い存在だ。
 ともかく、「あなた(たち)のために」などと公言することで自身の脆い心の安定を図ろうとする者は、妥当な意思によって公開しない者、すなわち心の内で密かに(真の)愛を高め育む者との〈人間性の差異〉を生じさせてしまう。この生起された惨めな差異は、心の弱者である公言する者によって妥当な意思ある者のせいにされることが多い。これは負の情念に支配された心の弱者における心の強者への責任転嫁の一種である。心の弱者が心の強者に対して狂ったように牙をむいて吠えることは少なくない。これに対して、心の弱者の卑怯な行為に黙過あるいは俯瞰することは健全で正当な行為である。その理由の一つは、その責任転換という虚勢的な威嚇に対して自身の創作や研究の素材・題材として善用する方法があるからだ。

「私は皆様の幸せのために活動している。その動機は皆様への愛情である」。
 上記のような一見聞こえの良い陳腐な台詞と遭遇してしまった。考える材料としては有難いことだ。だが正直、嫌な感じがした。どうやらそのように主張する者の愛情は、ある教義に基づくものから影響を受けていることが分かった。いかなる宗教や思想の教義または信条の一つであれ、それが連綿と再検、再思され続けるかぎり、深いものとなる。先ほど、嫌な感じ、と言ったのは、彼の浅薄性にある。すなわち、彼の愛情の理解が実に浅はかで、致命的なところでは愛の純粋性の真意を捉えられていないことにあった。そのうえ、尤もらしい愛情を掲げている彼であったが、実は自身の目的、利益、野望のためには他者を利用する利己主義型の人間であることも分かってきた。このことを知ってしまった以上、私としては自身の創作の素材になるかもしれないという意図のために、彼の言葉の端々に表れている幼稚さと、その痛々しい人間性からなる自己主張との邂逅を記念に書き記しておくことにしたい。
 まず本来、愛というものは利己的な性質から遠ざかることで、その真価を発揮するものである。真の愛と利己性は相いれない関係である。彼が言うところの愛情は、彼自身の利己性の開示によって、それが偽りであることが証明される。自身の虚偽の愛情に踊らされる彼は、自身の活動や表現に対する見返りを強く求めている。愛情を向けることで愛情の応答を求めるような愛情……。そんな彼の愛情とは、名声欲からなる渇望の一種のことである。言い換えれば、自身の中身を伴わない娯楽的な活動や表現によって、他者が悦楽することで生じる好反応または称賛、肯定または同意などへの執欲のことである。この種のものによって動かされる浅ましい野望家は、総じて愛というものを錯覚している。彼は自身の歪んだ悪欲の色眼鏡を通じてのみ、愛あるいはその周辺を認識するほかないからである。
 それに反して、本来的な意味での愛、つまり純粋な愛の行為には、見返りを求めるような意思がない。報酬を求めないからこそ、それが純粋なものであることの一つの証拠なのだ。だから、自身の活動や表現に対するある種の応答を請うものではない。やはりそれは必然的に偽りであることを証明する。そういうことになるのだが、彼の名誉のために、一応ここでは彼の動機が愛情である、ということにしたとしても、それでもやはり、欲念が垣間見える彼の言葉に対して好印象を抱くことはない。同時に、そうした彼の不実な御為倒しを臆面もなく強く主張するところを不憫に思うこともある。いずれにせよ、深みのない低級な人間性が露わになってしまっている。この事実すら気づけない彼は、これからも利己的に心の上昇志向を抱きつつ、しかしそれは決して思い通りにはならず、依然として他者を巻き込みながら生き続けることだろう。それもまた人生の一つの在り方なのだ。

[実益とは無縁な学問]
社会では実益が強く意識されていることは言うまでもない。ところがそうしたものに隷属されない毅然とした学問が存在する。それは哲学である。この永遠の普遍性を紡ぎ続ける学問は、真理に即して日常的実利性の侘しい制限から解き放つ。愛知者としての平静不動の生は、世界理性と一致する自由の実りをもたらす。