思考はある種の動力因である、と私は考える。ところが「汝、思考を止めよ」、と或る瞑想者が言い放っていることを知った。ようするに「私は誰でもない」という自覚の境地によって覚者となれる、ということらしい。しかしどうだろう。それは「思考を止めようと試みる」思考に過ぎないのではないか。現に、その瞑想者は「思考を止める」ことを完遂できていない。もしくは、単に消極的または強制的に思考を止めようと躍起になっているに過ぎない――とはいえ、本人としては、それは煩悩から解放された行為である、と迷妄しているが――。それどころか、この世界の――見えるもの、見えないものの区別関係なく――あらゆる対象に対して、散漫に、半端に思考することの堂々巡りに陥っている状況だと見受けられる。いずれにせよ、人間というものは(たとえ思考を止めることができると仮定しても)、思考を止めては世界ならびに世界における自身の実在性を直視することができないだろう。確かなのは、この虚弱な放棄の見解からでは世界の本質的な展開を見失うことになる。

「」への1件のフィードバック

Seiji_Kuraishi へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です