平明にして達意なる文章は、相手に理解され易い、という意味では自明のことだが良いものである。たとえば、義務教育の教員などが児童生徒の指導に当たる際、この価値観を重視することがその証拠である。しかし世界におけるある種の「難解性」を、(彼ら教員たちが難色を示すような)難解な文章によって表現しなければならないことが事実ある。それは難解な文章が格好いいから、などといった笑って見逃せるような些細な動機からではなく、究理のような至って切実な状態からである。ところが、世界に散在された何かしらの「難解性」に直面した際、義務教育で習ったままに、その「難解性」を平易な文章によって表現することがあるなら、その行為はその「難解性」の表層を表現したに過ぎない。実際、上辺だけの要約ならいざ知らず、「難解性」の全容(全貌)を「平易性」に則った文章によって解明されることなどあり得ないのだから。ましてや「難解性」の精華に到達することなど夢のまた夢である。

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