「私は皆様の幸せのために活動している。その動機は皆様への愛情である」。
 上記のような一見聞こえの良い陳腐な台詞と遭遇してしまった。考える材料としては有難いことだ。だが正直、嫌な感じがした。どうやらそのように主張する者の愛情は、ある教義に基づくものから影響を受けていることが分かった。いかなる宗教や思想の教義または信条の一つであれ、それが連綿と再検、再思され続けるかぎり、深いものとなる。先ほど、嫌な感じ、と言ったのは、彼の浅薄性にある。すなわち、彼の愛情の理解が実に浅はかで、致命的なところでは愛の純粋性の真意を捉えられていないことにあった。そのうえ、尤もらしい愛情を掲げている彼であったが、実は自身の目的、利益、野望のためには他者を利用する利己主義型の人間であることも分かってきた。このことを知ってしまった以上、私としては自身の創作の素材になるかもしれないという意図のために、彼の言葉の端々に表れている幼稚さと、その痛々しい人間性からなる自己主張との邂逅を記念に書き記しておくことにしたい。
 まず本来、愛というものは利己的な性質から遠ざかることで、その真価を発揮するものである。真の愛と利己性は相いれない関係である。彼が言うところの愛情は、彼自身の利己性の開示によって、それが偽りであることが証明される。自身の虚偽の愛情に踊らされる彼は、自身の活動や表現に対する見返りを強く求めている。愛情を向けることで愛情の応答を求めるような愛情……。そんな彼の愛情とは、名声欲からなる渇望の一種のことである。言い換えれば、自身の中身を伴わない娯楽的な活動や表現によって、他者が悦楽することで生じる好反応または称賛、肯定または同意などへの執欲のことである。この種のものによって動かされる浅ましい野望家は、総じて愛というものを錯覚している。彼は自身の歪んだ悪欲の色眼鏡を通じてのみ、愛あるいはその周辺を認識するほかないからである。
 それに反して、本来的な意味での愛、つまり純粋な愛の行為には、見返りを求めるような意思がない。報酬を求めないからこそ、それが純粋なものであることの一つの証拠なのだ。だから、自身の活動や表現に対するある種の応答を請うものではない。やはりそれは必然的に偽りであることを証明する。そういうことになるのだが、彼の名誉のために、一応ここでは彼の動機が愛情である、ということにしたとしても、それでもやはり、欲念が垣間見える彼の言葉に対して好印象を抱くことはない。同時に、そうした彼の不実な御為倒しを臆面もなく強く主張するところを不憫に思うこともある。いずれにせよ、深みのない低級な人間性が露わになってしまっている。この事実すら気づけない彼は、これからも利己的に心の上昇志向を抱きつつ、しかしそれは決して思い通りにはならず、依然として他者を巻き込みながら生き続けることだろう。それもまた人生の一つの在り方なのだ。

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